◆真昼の月◆

ヘルパーのお仕事、職人仕込みのレシピなどを綴ります。

この変てこな石像は宇都宮駅にある「餃子像」です。宇都宮は全国で一番、餃子を消費している土地らしく、名産の大谷石で餃子のビーナス像を作ったそうです。
 野暮用で宇都宮まで行ったので、
「やっぱりお昼は餃子を食べなくちゃね♪」と、あーちゃんと2人で、行列に並びました。
行く前にネットで調べたら、焼き餃子だけしかメニューに無いお店と、焼き・水餃子とご飯のある店の2店舗がお奨めって出ていたので、
「お昼ご飯にするんだから、餃子ライスがいいよねー」と、上記のお店に並んだ訳です。
何十人も並んでいたのですが、回転も速くて30分ほどで席に着くことができました。
入り口で食券を購入し、カウンター席で頂きました!
ひと口食べて、あーちゃんと顔を見合わせ、
「我が家の方が美味しいよね!?」
特に、水餃子はひどかったです。
焼き餃子と同じ皮で作られているので、お湯に浸かるほどふやけて、水っぽくなって、割れてしまう。
割れた所から、お湯が染み込んで、更に水っぽくなる。。。

さっき並んでいた人たちは、みんな一見さんの旅行者ですか?
本当にあの店の餃子を美味しいと思っているのですか?
とてもリピーターで混雑するような味には思えません。
せっかく宇都宮まで行ったのに!
本当は隠れ家的に美味しいお店があるんじゃないかしら。
だって、だって、我が家の方が美味しいなんてーーー!
と、いうより、その辺のスーパーで売っているチルド餃子の方が美味しいよ。
嘘だと思ったら、自分で作ってみてください。
市販の餃子の皮で、美味しいのが作れます。
なんだか、力が抜けました。
 父の葬儀の事を書いて以来、色々葬儀で困った事を聞きました。
私のアンテナに引っかかったエピソードをちょっと書いてみます。

1週間待ち
ベッドタウンに住むIさんのお父様が亡くなった時の事。
猛暑の年の8月6日という、とても暑い日だったのですが、お葬式を某会館にお願いしようとしたら、会場がいっぱいで、1週間待ちと言われたそうです。
「この暑い時に、1週間も遺体をどうしたらいいのですか?」と家族が聞くと、
「ご遺体の部屋は冷房を強くしておいて、畳にブルーシートを敷き、その上に敷布団を三枚敷きます。それぞれの間にドライアイスを入れていただければ1週間くらい大丈夫ですよ」
と言われたそうです。
Iさんは「そんなに放置しておいたら、父が可哀相です」と、会場を借りるのを諦めて、マンションの部屋で葬儀を行いました。
都市部に住んでいて、お手継ぎのお寺も無く、土地勘も無かったので、近所の会館を借りようと思ったそうですが、ご遺体と1週間過ごすのって、家族にとっても辛いですよね。
実際1週間待った方がいて、その方のお話だと、葬儀が終わって片付けたら、ブルーシートが敷いてなくて、畳がかびていたそうです。

管理人不在
マンションの8階にお住まいのNさんが病院で亡くなりました。
Nさんはマンションで独居でしたが、近所に住む三人の息子さんが病院で最期を看取ることが出来たそうです。
「ご遺体の移動をどうしますか?」と葬儀社の方に聞かれ、
「マンションのエレベーターを使用するのに、人目が少ない方がいいでしょう」という話になりました。
亡くなったのが午前4時。マンションへ6時30分に到着して、お部屋に運ぼうとしたのですが、まだ早朝のため管理人さんが不在でした。
ご遺体を乗せたストレッチャーでエントランスまでは入りましたが、エレベーターに乗せられません。
普通エレベーターは、救急のストレッチャーなどが入るように、後部が鍵で開けられ、広くなるようになっています。
でも、その鍵は管理人室の中。
仕方なく一旦ご遺体を輸送車に戻し、セキュリティー会社へ連絡をして管理人室の鍵を開けに来てもらいました。
結局準備が整ったのが7時過ぎで、通勤・通学の人が待つ、各階止まりのエレベーターで気まずい思いをしながら運び上げたそうです。
あなたのマンションは大丈夫ですか?

すべる霊柩車
都市部に住むEさんのお宅は、広いお庭のある立派な造りです。
お母様が亡くなって、友引の日を避けて葬儀の日を決めたところ、その日がたまたま大雪でした。
大通りは雪が解けて大したことはないと思われたのですが、お庭に入ってきた霊柩車は、スリップしてフラフラでした。
喪服を着た親族全員で道路までの庭を雪かきし、どうやら出棺したのですが、斎場は幹線道路を離れた田舎道にあり、道路には雪が残っていたため大変怖い思いをしたそうです。


急な葬儀ですから、思いもしないドッキリがあるんですね。
家族としては、なるべく不備無く送り出してあげたいと思います。
他にもきっと、色々な「困った」葬儀があるんでしょうね。
うーん。。。
 Fさんの奥様が一泊旅行に行くので、前日の夕食と翌日の朝食の介助を依頼された。
実は口も利きたくないFさんの、この臨時介助を引き受けたのは、奥様が用意するという夕食と朝食に興味があったからだ。
糖尿病でありながら、野菜が嫌いで肉が好き。先日「まずい」と口から咀嚼した物を吐き出されたときには、さすがにプッツンと来そうになった。
私たちヘルパーが介助するのは、昼食の配食だけだが、いったいそれ以外は何を食べているのだろうか。

 午後7時。夕食介助の時間。
奥様がテーブルの上に用意した食事を与え、服薬確認し、食事見守り。
テーブルの上に置いてあったのは、近くのスーパーで売っているトンカツ弁当だった。トンカツとスパゲッティとキャベツの千切りとたくあん。
これにウスターソースをたっぷりかけて召し上がる。ダメでしょう!
 午前8時。朝食介助の時間。
冷蔵庫に入っていたのは、生野菜サラダ、ボイルソーセージ、牛乳、マーガリンを塗った6枚切りトースト1枚。これをトースターで焼いて、たっぷりのイチゴジャムで召し上がる。いい加減にして!!

にっこり笑いながら「今日は奥様が帰っていらっしゃいますね。お土産はあるでしょうか」と、食事中のFさんに話しかけると、
「お土産なんか無いよ。一ヶ月に一回、嫁いだ娘とホテルのバイキングに行くだけだから」と、答える。
あら?今日はちゃんとお話してくれるじゃないの。
「ご自分も行きたかったですか?」 
   「いいや。全然興味ないよ」
「娘さんとお会いしたくないんですか?」
   「毎月病院へ付き添ってくれるから会っているよ」
「奥様がいらっしゃらなくて寂しいんじゃないですか」
   「うん。寂しい」
――――――え??今、何て言いました??――――――
   「年金で生活できるんだから、店なんか辞めればいいんだよ」
「そうすると奥様は介護だけをして家に居ろって事ですか?」
   「そうだよ。隣に居てくれればいいんだよ」
「奥様の事、お好きなんですね」
   「うん。好きだよ」
!!ひえ〜〜!!
それからFさんは、東京駅で見初めた事、恋愛結婚だった事、娘さんが産まれた時の思い出などなど、たくさん話してくれた。
昨日のトンカツ弁当は自分がリクエストをして用意してもらった。自分の希望をちゃんと聞き届けてくれて嬉しい。まずくても味が無くても、隣で一緒に食べて欲しい。「まずいね」って言い合いながら、「病気だから仕方ないね」って言いながら、一緒に居たい。
☆すっごいラブラブ☆
あーびっくりした。
これはもう、ヘルパーがFさんのために、どんな素晴らしい料理を作っても、全然役には立ちません。
Fさんはただ、奥様を求めているのです。寂しくて、私たちには拗ねて、駄々をこねていたのです。
79歳で、奥様を好きと言えるなんて、思わず髪の毛の無い頭を抱えて、よしよしと撫でてあげたくなるくらい、Fさんのことを可愛いと思ってしまいました。

奥様、奥様にはFさんの想いが届いていますか?
もしかして、鬱陶しいとか、面倒だとか思っていませんか?
どうかお願いです。Fさんと一緒に病気と闘ってください。
店は辞めなくてもいいです。ただ、一緒に食べる時のお食事を対糖尿病食にして、食事療法を続けてください。

 そして今日、いつもの訪問時、Fさんは私を待っていてくれた。
「いつもどおりマズイね」と言いながらも、娘さんの名付けの話や、昔旅行した時のお話をして、ほぼ完食できた。
楽しく会話しながらの食事は進むよね。
帰り際、「ありがとう。今度はいつ来てくれるの?」と言ってくださる。
初めてありがとうと言われて嬉しかった♪
「また来週の木曜日に来ますね」
Fさんと初めて握手して退室した。


 
 事務所でお昼ご飯を食べている時、久しぶりにMヘルパーと一緒になった。
 先日、父の葬儀で急に欠勤する事になった折には、木曜午後のA子さんのサービスに応援として入ってくれていたので、まずはお礼を言った。
「Mさん、2月24日のA子さんのサービスに入ってくださって、ありがとうございました。助かりました。お礼が遅くなってごめんなさい」
Mヘルパーは同じお宅のご主人担当ヘルパーで、月曜日に訪問している。
月曜日は、洗濯、買い物、掃除で2時間のサービス。
木曜日は、調理メインで、洗濯、買い物、掃除、見守りで3時間のサービスだ。
彼女にしたら、慣れない調理で大変だっただろうと思う。
「台所も慣れなくて、大変だったでしょう?」
「いいえ(笑)私が行ったので、ご主人が『調理は無理だろう』っておっしゃって、ご飯を炊いただけだったんですよ」
あー、そうだったの。ご主人に気を使わせて、申し訳ない事をしちゃったわ。
「それより、かずよんさん、A子さんが、失禁しちゃったんですよ。以前もそんな事がありましたか?」
えっ!?
Mヘルパーの話によれば、サービス中「気分がすぐれない」とベッドでうとうとしていたA子さんは、目を覚ましてベッドから降りて立ち上がった。
Mヘルパーは、その様子を台所で調理をしながら見守っていた。
手摺に掴り、なかなか一歩が踏み出せない。と、思ったとたんに失禁してしまったらしい。
A子さんは「誰にも言わないでね!」とMヘルパーに口止めし、濡れた服をご主人に手伝ってもらって着替えた。
汚れた服も、床も、Mヘルパーが「片付けます」と言うのに、触らせてくれず、その後はベッドに横になったまま出て来なかったと言う。
………ああ………プライドの高いA子さんとは、鬱の状態とパーキンソンの状態を一進一退繰り返しながら、ようやく信頼関係が結べたばかりだ。
普段の見守りでは、一歩を踏み出す時に
「ゆっくり歩き始めましょうね」と、声を掛け、手の届くところで見守っているが、寝起きの時にはトイレに行く事が多いので、立ち上がった瞬間に手引き歩行で介助し、トイレに連れて行く。
それを、Mヘルパーは知らなかった。
これは、きちんと引継ぎをしなかった私の責任だ。
いくら急な欠勤とはいえ、代理で入る可能性のある人には、マニュアルを作って用意しておくべきだった。
 失禁してしまった時のA子さんの動揺が、自分の事のように重い。
「誰にも言わないでって、おっしゃったんだけど、ケアマネと、かずよんさんには言っておいた方がいいだろうと思って…」
Mヘルパーは「役に立たなくてゴメンネ」とも言った。

私は、そんなアクシデントを全然知らなかった。
3月3日に訪問した時も、3月10日も、3月17日も、A子さんも、ご主人も何も言わなかった。
もう、知らない顔でサービスを行うしかないのだ。
A子さん、本当にごめんなさい。
きっと恥ずかしさで震える思いだったでしょう。
哀しくて、身が縮む思いだったでしょう。
ご主人も腰が悪いのに、着替えを手伝い、洗濯を手伝い、床まで拭いて、大変だったでしょう。
みんな、みんな、私が悪かったのです。
本当に、ごめんなさい。。。
 このところ、◆日常茶飯事◆ばかり更新して、こちらの日記がご無沙汰でした。ゴメンナサイ…

 今日はヘルパーの勉強会がありました。
テーマは「口腔ケアについて」です。
私はまだ、口腔ケアの必要な利用者さんにサービスを行った事がありません。
以前も同じような講習会に行きましたが、その時の内容は、どちらかというと、「食べるために」というのが中心でした。
今回は、もっと具体的に、口腔ケア用スポンジを使用した実技などがありました。
学習していて思ったのは、案外入れ歯についての知識を持っていなかったという事です。

 阪神大震災 1995年1月17日。午前5時46分。
 新潟中越地震 2004年10月23日午後5時56分。
このふたつの大きな地震で高齢者の多くが肺炎で亡くなりました。
高齢者が肺炎で亡くなる事自体は、全体の90%だと言われていますが、その内、95%は誤燕性肺炎だそうです。
被災者の肺炎は、入れ歯に繁殖した菌が肺に入り込んでの誤燕性肺炎を起こしたのではないかという報告があるようです。
阪神は、地震の発生した時間が早く、入れ歯をはずしたまま被災したので、口腔内の雑菌の繁殖があまり起こらず、新潟は、入れ歯をしたままの状態で被災し、水が不足して、口腔ケアが行き届かなかったので肺炎が万延。
よって、新潟の被災者に肺炎が死因の方が多いというお話でした。
流し台の排水溝や、お風呂にぬるぬるの汚れが付くように、入れ歯にも付いています。
夜眠る時は、部分入れ歯でもはずしておきましょう。
入れ歯は歯磨き粉で磨くと、減ってしまうので、台所食器用洗剤で洗いましょう。
入れ歯を24時間入れっぱなしにして、歯磨きも、うがいもしない介護は、オムツを換えないで放置しているのと変わりがないと言われました。
口腔ケアの認識が変わった勉強会でした。
 中学校の卒業式。
ゴシップ好きの女子の興味は、もちろん男子たちの第2ボタンの行方。
「両想いのIくんは、絶対Mちゃんにあげるよね」
「Tちゃんは、思い切ってSくんに『ください』って言うらしいよ」
「バスケット部のNくんのは後輩の女子が大勢欲しがっているんだって」
なーんて、その日の朝からヒソヒソと盛り上がる。
…式が始まるので、体育館へ移動してください…
校内放送がかかって、移動しようとした時、
「Yくんの第2ボタンが無いよ!」と、Kちゃんが言った。
「ええっ?いつの間に?」
第2ボタンのやり取りって、普通卒業式が終わってからじゃないの?
女子一同、興味津々。
Yくんって、恋愛なんて興味無しというように見えていたから、余計に想像を掻き立てられる。
「他の学校の子かなぁ」「昨日のうちに上げちゃったとか?」
「Yくんから上げるってイメージじゃないよ。ねだられて上げちゃったんじゃない?」
もう卒業式なんかそっちのけで、女子全員の意識がYくんに集中する。
 式が終わった校庭では、それぞれが家族や友達と写真を撮っている。
もちろんボタンのやりとりも、こっそりと、あるいは堂々と行われている。
知りたがり屋のR子が、とうとうYくんに質問した。
「ねえ、第2ボタン、どうしたの?」
Yくんはきょとんとして、自分の制服の第2ボタンが付いていた場所を指で探って言った。
「えーと。2ヶ月前くらいに取れちゃって、どっかへ無くしたからそのままだよ」
―――


卒業シーズン。こんな風景がきっとあちこちであるんだろうなぁ。(笑)
昨日はホワイトデーでしたね。
たとえ義理とはいえ、チョコをもらった男性諸氏はきちんとお返しをしたでしょうか?(笑)
今回、夫が選んだスィーツは、新宿伊勢丹に入っている鈴懸のイチゴ大福です。
福岡の「あまおう」という品種のイチゴがまるごと入っているのですが、
これが、とても美味しいんです♪
「あまおう」は、まだ流通されて1年という、新しい品種で、あまい、まるい、おおおきい、うまい、の頭文字を取って付けられた名前だそうです。
このあまおうは、中まで身が赤く、案外果肉が柔らかいんです。
だから、外側の餅と、間の漉し餡と、イチゴをがぶりと噛んだ時に、歯に当たる違和感がないんですよ。
同じような柔らかさで、ふんわり食べれるんです。
ジューシーで、酸味も程よくあって、上品な漉し餡とぴったりマッチしています。食べたら幸せになれますよ♪
期間限定1個税込み231円。
 2月末から、今回の帰省についての顛末記を書いてきました。
連日陰気で、うっとうしくて、嫌な気分になられた人も居たでしょう。
ごめんなさいね。
どうやらこれで、私の中もひと片付けすんだようです。
次回からは、今までどおりの元気で美味しいブログを更新していきたいと思います。

 やさしい言葉をくださった方、暖かな心遣いをくださった方、
メールを送ってくださった方、BBSに書き込んでくださった方、
それから、パソコンの向こう側で、心配しながら見守ってくださっていた大勢の方々。
  本当にありがとうございました。
これからの「月明かりの部屋」とも、お付き合いくださいね。
 
 柔らかな春に向けて、歩き出したいと思います。
 夕べは遅くまでお姉さん達と話しこんでいたので、実家に戻った時には母はもう眠っていた。
 そっと鍵を開けて家に入り、すぐに荷造りをする。
時刻表を見ると、朝7時33分発のはくたかに乗車すれば、午後12時頃には大宮に着く事がわかった。
早く帰ろう。帰ってからゆっくりしよう。
もともと三泊四日の滞在のつもりで来たので、荷物は多くない。セーターだって、ジーパンだって、着たきりスズメで過ごしてきた。
 夫の喪服は49日の法要まで実家に置いておくことにして、カバンの空いたスペースに父の遺品を入れて帰ることにした。
 本当は店の名前の入った包丁を形見にもらって帰りたいと思ったのだが、Mさんが店を続けてくれるので、そのまま使ってもらう事にした。
 替わりに形見としてもらってきたのは、父が愛用していた魚と貝の図鑑。
浜の漁師さんが、珍しい魚を持ち込んでくると、これを使って調べていたらしい。ポケット版の小さな図鑑は、写真が豊富で、子ども達も喜びそうだった。
 それからもうひとつ。
父の押入れの中から出てきたのは、昭和39年に民間人として初めてソ連を訪問した時の航海日記だ。
敦賀から出航し、新潟からヤクーチャ号で横浜へ寄港し、ナホトカへ。
ナホトカ駅からシベリア鉄道でハバロフスクへ移動し、工場などを見学している。
この記録が大変興味深く、面白いのでもらって帰ることにした。
(内容については、いつか紹介できるといいなと思っています)
出航の前後、父は眠っているまだ幼い私を無理やり起こして、
「『ありがとう』はスパシーバやぞ。ほら、言ってみろ。『さようなら』はダスヴィダーニャや。覚えたか?」
と、連日うるさいくらいロシア語講座を行っていた事を覚えている。
母に抱かれて敦賀港で、船を見送った時の大勢の人。
色とりどりの紙テープが舞いちぎれて、遠ざかっていった父の乗る船。
私の記憶の中のソ連訪問はその程度だが、田舎者の父が、どんなにワクワクしながら旅をしたか、想像するだけで楽しい。きっと、嬉しくて仕方なかったのだろうと思う。

 父について、私の知らなかったもうひとつの事実がある。
それは、店の引き出しの中から出てきたハーモニカだ。
妹に「子どもにこれを形見であげたら?」と言っていたら、車のダッシュボードからも、自宅の父用の引き出しからも次々とハーモニカが出てきた。
「どうしてこんなにたくさん持っていたんだろう」
私の素朴な質問に、夫が答えた。
「ほら、これはC調のハーモニカで、こっちがC#調のハーモニカ。重ねて使うと綺麗な演奏ができるんだよ。お父さん、音楽が好きだったんだなぁ」
よく見れば、確かに種類が違う。G調、G#調、F調、F#調…
 父が好きだったのは、津軽三味線だけではなかったのだ。
三味線は50の手習いで始めたので、一度見に行った発表会での父の演奏は、お世辞にも上手いとは言えなかった。
ハーモニカはきっと昔から好きだったのではないか。
そう思うと、演奏を聞いたことが無いのが惜しかった。
あの分厚い手で、太い指で、どんな風に、どんな曲を演奏していたのか、
今となっては知ることも出来なくなってしまった。
結局、このハーモニカは49日の法要に私の子どもも合流してから、どうするか決めようと言う事になり、とりあえず母の元に残してきた。

 2月27日 日曜日。
妹に置手紙を残し、母には行ってきますと告げて、予定のはくたかに乗り込んだ。
 新潟へ向かうほど雪は深くなり、日曜ということもあって、あちこちのスキー場で観光客がリフトに載っている姿を見かけた。
それも、越後湯沢で新幹線ときに乗り換えて、トンネルをくぐれば、信じられないほどの晴天が広がる。
雪など跡形もなく、家々のベランダには布団が干してある。
帰ってきた。太平洋側へ帰ってきたのだと実感が広がる。
家に戻れば、昼食を済ませたばかりの三人の子ども達がしがみついてきた。
どの子の頭もくしゃくしゃと撫でて、抱きしめ、ただいまと言い、おかえりと言ってもらう。
 8泊9日という長い日数を、思いもかけず留守番する事になってしまったあーちゃんに「ありがとう」を言い、今回の出来事を話す。
気が付けば、父が亡くなった事への実感は薄れている。
まだあの店がある限り、あの店で仕事をしているような気がして仕方ない。
もともと離れて暮らしていたので、よけいにそう思うのかもしれない。
それなら、それでもいい。
父は、間違いなく、私の中に居るのだから。
2月26日土曜日
残る大きな支払いは二ヶ所。葬儀社と、酒屋だ。
 ケンちゃんに来てもらって、清算をしてもらい、残った香典返しの商品券は返品する。
 一方の酒屋は、結構未払い金が大きくて、面食らった。
けれど、Mさんが引き続き店を営業し、取引も続くのなら、誠意を持って支払わないと後味が悪い。
不動産や預金を相続するのと同様に、負債も相続しなければならない。
母は既にあちこちの支払いで、負債の二分の一を支払ってしまったような勘定になるので、この酒屋の請求金額は私と妹とで払う事にした。
いずれ父が生きていて、介護が必要な身体になれば、何がしかの支出があって当然だし、それがなくなった今、このお金を払う事は父に仕送りをしているようなものだからと妹と話し合った。お酒の大好きな父が飲んだ酒代だと思う事に決めたのだ。
 私たち夫婦も、妹夫婦もサラリーマン家庭なので、そんな大金を一括で支払う事はできないと、夫に交渉に出向いてもらい、毎月決まった金額を母の元に送り、月末に実家へ集金に来てもらうことで話はまとまった。
 午後からは店でSさんを仲介人、夫を立会人として、Mさんと母との契約を取り結んだ。
これで大体片付いたと言っていいだろう。
肩の荷が下りて、本当にほっとする。
そのまま店から父の車を自動車店に持ち込んで、あとの処分をお願いする。

 どうやら安心して帰れそうだと思ったとたんに、子どもたちの事が思われる。
あーちゃんが留守番してくれているので、なんの不安もなく葬儀と清算に走り回る事ができたのだが、子どもたちはどんな気持ちで待っているのだろう。
どんな食事を食べ、学校ではどんな生活をしているのだろう。
今回の滞在が長かったので、小学校の授業参観に出席する事ができなかった。スキー教室のビデオを一緒に見ることを楽しみにしていた次女はがっかりしているだろうか。
喘息のある末っ子は、朝晩きちんと薬を飲んでいるだろうか。
期末試験の近い長女は、ちゃんと勉強しているだろうか。
子どもたちの顔を思い出すと、もう帰りたくて仕方なかった。
こんなに長く離れているのは初めてなのだから、いくら事情を知っていても子ども達だって不安だろう。
お土産を買うような暇も無く、身体ひとつで申し訳ないが、明日なるべく早い便で帰ることに決めた。
 その夜は、夫の兄弟達と集まって食事をした。
また激しく雪の降る夜となったが、さほど遠くない居酒屋で、新鮮な地の魚を注文し、刺身、焼き魚、から揚げと食べに食べた。
お兄さんやお姉さんが「ちょっと、そんなに食べて大丈夫??」と聞いてくる位、とにかくバクバク食べた。
しばらくぶりに、食べ物の味が分かったような気がして、「まともな食事をしている」と思う事ができ、温かいものを温かく、揚げたてのものをすぐに食べられるのが嬉しかったのだ。
兄姉の会話に加わりもせず、ひたすら食べる私のあまりの食べっぷりに、あきれ返るお姉さん達を見回して、にっこり笑ったら、お姉さん達も「大丈夫そうね」と笑ってくれた。
水分もたっぷり摂って、今夜はしっかり眠ろう。
明日帰れば、母としての日常が待っている。
へこんでなんかいられないのである。
 2月25日金曜日
平日の間に役所関係の色々も片付けておきたいと思っていたが、今日は税務署と法務局へ行く事にする。
Mさんに任せきりにしていたので、いったい税金の支払いがどうなっているのか、全く分からなかったからだ。
自宅に請求される固定資産税などは、母が払っていたようだが、所得税は店に請求が来ているはずなので、未払いがあるのかどうか、チェックが必要だった。
しかし、ここでも相続人の身分確認が必要で、私では過去の閲覧が出来なかった。これはもう仕方が無いので、後日母に出向いてもらう事にする。
ただ、父が亡くなったとはいえ、今年の1月と2月については収入が発生していたわけであるから、4ヶ月以内に確定申告をするようにと教えてもらった。
 法務局へ来た目的は、発生する固定資産の相続を明確にするためで、土地の形状図をコピーしてもらった上で、相続の相談コーナーを訪ねる。
面積と評価額表から計算すると、どうやら相続税がかかるほどの土地と建物ではないらしかった。
第一、メインの土地には、母と妹家族が住む二世帯住宅が建っているのだし、他は、店舗とその下の土地のみだから、たいしたことはない。
昔あった田んぼや畑はとうに売り払ってしまっているし、私は故郷を離れて住んでいるので、母たちが住む場所さえあれば、それで問題は無い。
相続の仕方も教えてもらって、実印と印鑑証明が必要な事、相続は10ヶ月以内に行う事など聞いて帰った。

 実家に戻ってみると、Sさんが契約書のサンプルを持って来てくれていた。
78歳の行動力に、頭の下がる思いをする。
契約と言うのは、家賃の取り決めだけでなく、実は様々な要綱があるのだということに初めて気がついた。
修繕の行い方や、火災保険の取り扱い、敷金の約束など、私たちには思い付かない細々した事がきちんと書き出されていて、目をまるくして書面を見た。
「いやぁ、こんなのはちゃんと見本があるんだよ。それをちょっと書き換えただけだから、たいしたことはないよ」
Sさんは事も無げだが、さすが多くのマンションを持ち、支店をいくつも抱える飲食店を統括しているだけの人であると、痛感する。
しかも、このSさんは夫がまだ小さかった頃、同じアパートに住んでいて、
あーちゃん(義母)が共働きだったSさんの子どもを預かって面倒を見たこともあるという奇遇な存在だとわかった。
「夜、うちの娘が熱を出すと、おにいちゃん(私の夫)のお母さんが、職場まで知らせに来てくれてのぉ、本当に世話になったんやざ。こんな40年ほども間があって、また巡り会うなんて、驚くのぉ。今度の件もご縁やと思って、精一杯やらせてもらうでの」
 偶然と言うのは、こんなに突然に、こんなに時間をおいて訪れるものなのかと夫とふたりで驚く。美容師をしている夫の姉と、Sさんの娘さんとは同級生で、お姉さんたちは今でも交流があるらしい。Sさんが言った「ご縁」という言葉を身を持って知った感がある。
「おにいちゃん、今週末で帰るんやろう?だったら、なるべく早く契約を済ませたほうがいいと思ってのぉ。日曜日に契約をしようと言ったけど、明日の土曜日にしようか?その方が、楽に帰れるやろ?」
と、Sさんは更に嬉しい気遣いをしてくださり、「ほんなら、明日13時に店で会おうの」と帰っていった。
Wさんといい、Sさんといい、今回巡り会えた人たちはどなたも素晴らしく、父を愛してくれて、本当によくしてくださった。
私も夫も、心が暖かく、とても嬉しかった。
 2月24日木曜日。 
 朝から店のTVの運び出しを行う。
伯父さんが軽トラックを出してくれたので、それに家電や布団、洋服などと一緒に、引き出しの中身や本も積み込む。
冷蔵庫の中身も処分して、冷凍庫に移したり、実家に持ち帰ったりと仕分けする。
 父の車を購入した代理店に引き取ってもらうために訪ねる。
その自動車販売店は、もうずっと前、父が中古車販売をしていた頃からの仲良しで、私と同じ年の息子さんがいた。
まだ小学校の時に、その息子さんは病気で亡くなり、以後私と会うたびに
「大きくなったなー」とか「結婚したのか」とか目を細めて声を掛けてくれる優しいおじさんだ。
「急な事で、びっくりしたやろ?つい4日ほど前にここへ来たんやざ」
と、おじさんはその時の様子を話してくれた。
お天気のいいある日、父はここへ車を持ってきて、「スノータイヤをはずして、ノーマルタイヤに換えてくれ」と言ったそうだ。
おじさんが、「週末にまだ雪が降ると天気予報で言っているから、もう少しこのままにしておいたほうがいい」と助言したのに、父は頑として交換を希望し、とうとう根負けしてノーマルにしたのだという。
「言い出すと聞かない人だったからねぇ。カンちゃんらしいと思いながら取り替えたんだよ。案の定週末に雪が降って、またスノーに換えてくれって言いに来るかと思ったら、死んだっていうじゃないか。びっくりしたよ」
おじさんはそんな話をしながら、ローン会社へ連絡してくれた。最近は個人情報保護が厳しくて、家族といえどもローンの詳細を教えてもらえなかったのだ。
それに、「あなたは間違いなく相続人ですか?確認できれば情報を開示します」と言われると、困ってしまう。
相続人の身分確認できるような、父と同一住所に住んでいた訳ではないし、妹も私も既に嫁いで苗字が変わってしまっている。
そうなると、母しか確認できない事になるが、母はまだ自宅に来客が多いため、出かけられない。
おじさんはローン会社へ電話を入れ、「死んだから残金を払わなくてもいいのなら、助かるんだけどなぁ」と茶化している。
結局払ってくれるなら、支払人が誰でも構わないらしかった(笑)
ローン会社まで出向いて行って、残金を支払い、「完済証明」という紙をもらう。これで車をおじさんに預けて、廃車にするなり、転売するなりしてもらえるのだ。

 店の処分を相談しておいたSさんから連絡が入って、賄をしていたMさんが、そのまま店を使ってくれそうだと言った。店は愛されていたし、そのまま使ってくれれば、お客さんも来やすいだろう。願ってもない話だった。
Mさんと、ご主人、Sさんと私たちで会って、話をしてみた。
賃貸契約で店を貸す事になり、その金額や条件についてはSさんが仲介に入ってまとめてくれる事になった。
それならと、店で使っていたファンヒーターや食器洗浄機、ケーブルテレビの加入権などもまるまるそのまま渡す事にする。
休業期間が長引けば、お客は離れていってしまう。
お客さんたちがこの店の行く末を気にかけている間に再開した方がいい。
開店は3月3日が目標だ。その間に廃業手続きや営業手続き、各種名義変更が必要となってくる。一番のネックは保険所の検査で、これが通らないと営業が認められない。そのあたりも、抜群に手馴れたSさんがアドバイスしてくれて、話はとんとん拍子に決まっていった。
 目の前の道に、光が見えてきた。
なんとかこの帰省中に形になりそうだった。
 2月23日水曜日。
配偶者の両親が亡くなった場合の忌引きとして、今週いっぱい夫は休める事になっている。
泣いている暇も、呆けている暇もない。
なんとか今週中に店の今後を決めて帰りたいと、朝から確認する事や手配する事などを思いつくままに書き上げ、電話をかけていく。
 店の営業状態は賄いのおばちゃんであるMさんが伝票を一切預かって、確定申告に向けて計算中だというので、まずは会う事にしたのだが、なにぶん田舎というのは、交通の便が悪く、おまけにこの雪で往生した。
 母は腰痛で店を退いてから、車を持たなくなった。
たいていは自転車ですむ距離しか移動しないし、どうしても車が使いたい時には、土日の妹が車に乗らない時に借りて運転している。
今回、私も夫もJRで来たので、足が無い。
妹は「棚卸だから休めない」と、今日から仕事に復帰。妹婿も今日から仕事だ。
「お父さんの車、空いているよね」ふと思いついて口にする。
「あれも、手放す手続きをしなくちゃね。確かローンがまだ残っていたと思うよ」
私の言葉に夫が「じゃあ、今週中、その車を借りるとするか」と言った。
 店の今後について、「友の会」会長で、事業家のSさんがアドバイザー役をかって出てくれる事になった。
「店を居抜きで借りてくれる人がいると一番助かるんですが」
「うん。それが一番無駄が出なくていいなぁ。」
お客を中心に心当たりを探してみると言ってくださり、私たちは受け取った伝票を元に、未払いのつけがある仕入先に支払ったり、店で加入していたNHKの受診契約解除、ケーブルTV解約と奔走する。
もちろん店の水道、電気、電話についても手続きが必要だ。
車の手続きのように、店舗以外に片付けないといけない事は思いの他色々あった。
年金の手続きは、郵便局員が訪問してくれて代行してもらえる事になったし、父名義の銀行口座の名義変更や、その口座から自動引き落としになっている物への対応、JAFの解約、携帯電話の解約。
平行して店から父の個人的荷物を引き上げる。
押入れの中には、自分で作りつけたハンチング帽用のフックがたくさんあり、
とりどりの帽子が並んでいた。
TVやステレオといった重い物は、明日親戚の手を借りて運び出す事にする。
また、近所のお手伝いしてくださった方のお宅を訪問してお礼を言ったり、駐車場を借りた病院へ付け届けをしたり。
焼香順などで不手際が発覚したお宅へはお詫びに伺う。
お御堂を貸してくださったお寺への支払いも済ませる。
精進上げを行った料理屋への支払いも金額が大きく、早く支払ってしまいたいと、香典の中から取り分けて持って行った。
茶封筒をいくつも用意して、それに電気・水道・NTT・酒屋・葬儀社などと支払い先を記入し、中に請求書と現金を入れておく。
払い終わった封筒は「済」と書いて、ゴミ箱ファイル代わりの大きな茶封筒に入れて保存。
領収書は決算用のノートを作って、そこへ貼っておく。
親戚が香典帳のチェックに来てくれて、私たちの知らない弔問客には「○○の友人」だの、「○○会社関係」だのと書き込んでくれた。
バタバタしていたので、時間が経つのが早い。
夜ゆっくりと手足を伸ばして入浴。
そういえば、何日ぶりのお風呂だった。
 料理屋の控え室では、町内の香典担当者が最後の会計をしてくれている。
最近、まとめて10人分ほどの香典を持ってくるが、中身が一人分千円しか入っていないという詐欺が横行していると言う。
香典を出すと、その場で香典返しをお渡しするが、その中身は商品券で三千円。それを10人分持って帰ってしまうらしい。
中身が0円で無い限り、詐欺罪に問う事は出来ないらしいから、見つかったらとぼけてしまえばいいということか。
受付担当者は、記帳してもらっている間に中身を確認して香典返しを渡している。
しかし、あとで香典帳を確認してみると、全く知らない人が5人ほど、香典千円ずつ持って来ていた。
これは香典返しを目当てにした者かもしれないが、受付では確認できないためにお返しを渡していた。二千円分お得×5人=一万円の儲け。だったのかもしれない。
通夜や葬儀の間の留守を狙った空き巣も多いと聞いてはいるが、世の中悪い事を考える奴は尽きないものである。
 集計が終わると、会計報告を聞き、香典を全額受け取ると同時に、このあとお寺へ持参する納骨料を別に取り分ける。
永代経代、枕経代、お車代など項目ごとに包みにお金を入れ、骨壷と一緒に持って行くのだ。
包みは全部Tさんが達筆で書いてくれてあり、薄墨の美しい文字にうっとりするくらいだった。
 お座敷には、あらかじめ届けられていた引き出物と、式場から持ってきてもらった盛りカゴの中身の詰め合わせがお膳の横に用意されている。
町内会長さんが私に
「盛りカゴはぎょうさんあったで、余った分は全部家に届けておいたざ。
ほれから、メロンは一個も分けなかったでの。後から訃報を知って、自宅にお参りに来てくれる人がいたら、それを香典返し代わりに使えるやろうと思ったで」とささやいた。
本当に気の利いた事を、さらっとやってくださる方が多い。
丁寧にお礼を言って、お膳に付いて頂いた。
 家族はそれぞれ、お酌にまわる。
お礼を述べ、今後家に残る母と妹夫婦の事をよろしくと伝え、お互いに父を偲ぶ。
私と夫は帰らなければならない。
これからは、近所に住む町内の人たちと、親戚との付き合いは、妹夫婦が中心になるのだから。

 おおよそ1周お酌がすんだところで、父の遺骨が到着した。
小さな骨壷がふたつ。ひとつは寺へ。ひとつは墓へ収める分だ。
それを確認し、もう一度感謝の挨拶をして、お開きとなった。
今度は私たちが皆さんをお見送りし、自分のお膳に付いて食事を摂り、予備のお膳のお料理をパックに詰めて持ち帰る。
帰ったところで冷蔵庫の中はからっぽだ。
何日も買い物をしていないし、これから納骨に行って、帰宅してから何か料理するのは難しい。かといって、どこかへ食べに行くのも面倒だ。
夕食用に料理を確保すると、一度家に戻り、お寺へ行く事にした。

 家に戻ると、玄関先にケンちゃんが持って来てくれた花が、両手で抱えきれないくらい置いてあった。
蘭や、大ぶりのカサブランカや、キンギョソウが中心の豪華な花だ。
お膳に付いた人たちから「祭壇がすばらしかった」と何人にも言われた。
お住職からも「うちの寺始まって以来の祭壇」と言って頂いたし、「芸能人のお葬式の祭壇みたい」とか、「胡蝶蘭がたくさん入っていて豪華だった」とか、「高いだろうに、菊の蕾の固いのがたくさん使われていて、立体的だった」などなど大絶賛。
みんなよく見ているのね。
ケンちゃんったら随分頑張っちゃって、大丈夫なのかしらと心配になるほどだ。
ケンちゃんに直接、「おいくらの祭壇ですか?」とか「お宅でお願いすると、いつでもこんな祭壇をお願いできるのですか?」といった問い合わせもあったそうで、少しは宣伝になったのだろうか。

派手で、にぎやかで、イベント好きの父も喜んでくれたに違いない。
これで文句があるのなら、いつか会った時に説教してやらなくては。

 お手継ぎのお寺で納骨の儀式を済ませて、骨壷をひとつ預けてきた。
かんにょめさんちの最後のカンちゃんは、
こうして逝ってしまった。
かんにょめさんちは、もう無いのと同じだ。。。
葬儀

2月22日。お天気の変わりやすい、一日になりそうだった。
結局父の姉弟と、特別仲のよかったお客さんとで寺で一泊したのだが、本日は10時から葬儀。11時出棺。12時火葬。12時半精進上げ、16時納骨とあわただしい。段取りを忘れないように何度も頭の中で繰り返し、美容室で着付けてもらう。
 硬くなったパンと、冷たくなったお弁当を持って出たが、暖かいお茶が欲しくなって途中の自販機でペットボトルの日本茶を買ったら、くじに当たった。
自販機のルーレットで当たるなんて初めてだ。おめでたいような、変な感じ。おまけのもう一本で缶コーヒーをもらい、美容室で飲み下した。
ちゃんと食べているようで、少しも食べている気がしない。けれども食べたい物も具体的に思い浮かばない。ただ機械的に口に入れ、飲み込んでいる。
気が付けば昨日も一昨日もトイレに一回しか行かなかった。
これは、まずいかもしれない。
 父の最期の大イベントだとケンちゃんは言ったが、まさに今日がフィナーレ。
しっかりしろと自分に言い聞かせて、今日は草履で寺へ向かった。
 
「遺影と位牌を持つ人は決まっているか?霊柩車に乗るのは誰かするか決めたか?出棺時の挨拶は、喪主のおふくろさんに代わってダンナがやるんだな?その時に降っていたら中でマイクを渡す。降っていなければ外だ。お御堂から出て行くんだから、履物を取りやすい位置へ置いておけよ」
朝からケンちゃんの細かい指示がある。
町内のお手伝いさんも、あわただしい分大変で、出棺を見送った後、盛りかごの果物とお菓子をばらして、精進上げに出席する人に渡す分50袋作って料理屋へ運ぶ。他に自宅へ持ち帰る分はダンボールに入れて届ける。それからお見送りして下さった方に配る分も用意する。
こういう裏方の仕事をしてくれる人がいるのは、本当に助かる。
 定刻どおり、導師様をお迎えして葬儀が始まった。
30分ほどの間に読経と焼香が行われ、そのあと棺を祭壇から下ろして最期の別れをするために蓋を開ける。
祭壇からたくさんの胡蝶蘭をケンちゃんが抜いてきて、
「棺に入れてあげてください」と参列者に渡す。
父は胡蝶蘭で埋め尽くされていき、いつも飲んでいたウイスキーを染み込ませた脱脂綿で口元を潤してもらっている。「友の会」で旅行する時の旗も棺に納められた。
私の耳元でケンちゃんが
「菊以外の花は、自宅の仏壇と祭壇に使えるように、後で家に届けておくからな。それから霊柩車の運転手はWさんに頼んであるぞ」と言った。

 このWさんは、父を発見してくれた人だ。
父とは40年以上の付き合いで、毎朝湧き水を汲んできて店に届けてくれていた。
あの朝も、水を届けに来て、勝手口の父を見つけてくれたのだ。
第一発見者が霊柩車の運転手さんだったというのは、ケンちゃんもびっくりして、同業者同士知っているからと、運転を頼んでくれた。
Wさんの運転する黒いリムジンの霊柩車が、寺の前に到着した。
雪は止んでいるので、外で挨拶をする事になり、霊柩車の後ろに母と妹夫婦と私たちが並び、夫にマイクが渡された。
夫は今日も紫のゴム長を履いたまま挨拶を行っている。
ふと気が付いて、お見送りの人たちを見れば、やはりみんな黒の喪服に色とりどりの長靴姿だった。
雪国の冬の葬式では、珍しくない事なのかもしれないと、人事のようにぼんやり思う。
挨拶が終わると、斎場へ向かう人はマイクロバスに乗り込み、私と母と妹は霊柩車に乗った。
生まれて初めて乗る、高級車リムジン。
けれども、もちろん全然嬉しくなんかない。
Wさんが、父と交流があったという上妻宏光の津軽じょんから節のCDをかけてくれていた。 
津軽民謡の好きな父だった。店には民謡歌手や演奏家もよく来店してくれた。
一緒にわざと津軽弁で嬉しそうに話していたっけ。
プロの人たちが店で太棹を弾いて、歌を唄って、太鼓を叩いて…
懐かしい光景がまぶたに浮かんだ。ご機嫌だった父の嬉しそうな顔。
「合いの手を入れろよ」と、無理やり唄わされた事。
「太鼓を叩いてご覧よ」と、成田雲竹女さんに教えてもらった事。
おそらく店の歴史の中で、最盛期だった頃の記憶が渦巻いて、あの頃に私を連れ戻す。
自宅を通り過ぎる時、Wさんが
「遺影を掲げて、家をよく見せてあげて」と言った。
妹が泣きながら写真を窓から向けた。
店の前には近所の常連さんたちが数珠を手に待っていてくれ、ちょうど赤信号で停止した私たちを合掌して見送ってくれた。
Wさんが泣いていた。
タオルで涙を拭いながら「マスターとは、ようけ喧嘩もした。喧嘩するほど仲良くなった。もう会えんのやなぁ」とつぶやいた。

 郊外の新しい斎場に、私は初めて来た。
斎場とは思えないほど、明るくて綺麗だ。
古い斎場は、暗くて狭い上に、火葬のボイラーの音がゴウゴウと聞こえる怖い場所だった。けれども、近代化された斎場はとても静かだ。
 最後の読経が行われ、まるでエレベーターホールのような別室へ通される。
10機の火葬炉が並んでいるのだが、扉はやはりエレベーターと酷似している。
ラッキーセブンが父の火葬炉だった。
棺が入れられ、扉が閉じると、係りの人が「近しい方で点火して頂けるのはどなたですか?」と言った。
 なぜ私が選ばれたのかわからない。
ふらふらとスイッチに近づいて行ったが、誰も他に「私がやる」とは言わなかったし、「やめておけ」と言う人も居なかった。
直径2センチほどの赤いスイッチが大理石の白い壁から浮かび上がっている。
 指が震えて、目標物を捕らえられない。照準が合わないだけでなく、右手の袂がぐらぐらと揺れている。仕方なく左手で袂を押さえ、スイッチから20センチくらい離れた壁に指を付き、伝わせながらスイッチに近づけていく。
ようやく人差し指で押すと、かちり。と小さな小さな音がした。
 背中をぞわりと上がってくるのは、たった今、私が父の身体に火を付けたという事実への悪寒だ。
ボタンに手をかけたまま、嗚咽がほとばしった。
もうどうやっても止められなかった。
夫が肩を抱いてくれたような気がするけれど、はっきり覚えていない。
おそらく抱えられるようにマイクロバスに乗り、料理屋へ移動したのだろう。
斎場には遺骨を拾ってくれる従兄弟がふたり残ってくれた。
彼らが料理屋で合流する時には、小さな骨壷の中に父は入っているはずである。
 2月21日。
昨夜から降り始めた雪は激しさを増し、朝には一面の雪景色となった。
15時納棺、18時30分通夜の日程にむかって準備を始める。
 夕べのうちに葬儀社から新聞各社の「お悔やみ欄」への記載依頼をしておいたので、朝刊で確認をする。
地方紙の「お悔やみ欄」は効果覿面で早朝から父の死亡を確認する電話がたくさんかかってきた。ここは共働きが多く、平日日中の葬儀に参列できない人が多いため、メインは今夜のお通夜ということになる。
 雪はますます降り積もる。回り焼香だから、ひとりあたりの滞在時間が短いとはいえ、これでは路上駐車が出来そうも無いと、近くにある病院の駐車場を借りられるように頼みに行く。
 妹は貸衣装の和服の喪服をレンタルするために出かけていった。
近所の美容室に、今日と明日の着付けをお願いに行き、家の仏壇に供える和菓子と、手軽につまめるパンなどを買っておく。
 通夜のお手伝いをしてくださる方々と、お寺で夜明かしする親族のためのお弁当の手配も、明日の葬儀の後行われる精進上げのお膳の段取りも、早く決めておかなければならない。
 地域的な差があるのかどうか知らないが、この地域は斎場で火葬を済ませた後、そのまま料理屋へ移動し、初七日を兼ねた精進上げをしてしまう。
お膳に付くメンバー決めや席順は、結婚披露宴と同じくらい重要だし、焼香順も手落ちが無いように気を配る。それでも、なにかしら手落ちはあるのだが。
 受付はお店&一般でお手伝い5人。親戚&町内でお手伝い10人というなかなかの規模だ。雪の降る中、駐車場での案内役も町内の人がやってくれる事になった。
 15時の納棺には、若くて美しい葬儀社の人が2人来て、父の旅路への着替えをしてくれる事になった。みんなと相談して、法衣を着せる事はやめ、普段の父らしい服を着せようと、白いハイネックのセーター、エンジ色のニットジャンパー、黒いズボンを選び、手元に千鳥格子のハンチング帽を持たせると、父はあまりにも安らかな顔で、ほんの少し眠っているだけのようにさえ見えた。
 孫たち5人からの手紙と、愛用の財布。お客さんの看板屋さんが毎年描いてくれていた父の似顔絵も棺に納めた。
普通、棺を運ぶ時には男性しか触れないのだというが、ケンちゃんは、
「出棺の時は男性に運んでもらうのだから、家から寺まで行く時は、女性に触ってもらおう」と言い、伯母たちと母、妹などで棺を担いで(もちろん男性も手伝った)運搬車へ運び込んだ。

 父は寺へ向かったわけだが、私たちは喪服に着替えるために美容室へ行かなければならない。
風呂敷に必要な物を詰め込み、朝からろくに食事していない事に気が付いて、パンと缶コーヒーを持って美容室へ行った。
通夜では、喪主と近しい親族が一番お御堂の入り口に座って、参列者をお迎えする。焼香が終わるまで、お御堂の戸は開け放たれたままなので、かなりの冷え込みになるだろう。髪のセットに時間のかかる母から順番に、私たち三人は背中にしっかりカイロを貼って着物を着せてもらい、寺へ移動した。
 しかし、着物は着たものの、外は道路上でも雪が10センチ以上ある。
草履も一緒にレンタルしてきたが、草履で歩けるような路面ではない。
長靴を持参しなかった私は、母の長靴を借りる事にした。
畑仕事用の黒いゴム長だが、草履よりはましだ。
母はいつも外出に使用している黒いショートブーツを履いた。
妹に至っては、ピンクの長靴である。
「今日は座ってお迎えするだけで移動しないから、長靴は脱いじゃうし、わからないわよ」
と、妹は言って、スタスタと寺を目指す。
そういえば、夫も長靴を持参していない。
夫の足のサイズに合うのはというと、父の長靴なのだが、店の洗い場で使用していた白いゴム長か、普段履きにしていた紫のゴム長しかなかった。
夫は喪服に紫のゴム長姿で通したのだった。

 寺に着くと、すでにテントが張られ、受付の人たちが香典帳の用意をしていた。「よろしくお願いします」と頭を下げて、控え室に行き、最終チェックをする。お御堂には、私が見たことも無い立派な祭壇が出来ていた。
「こういう祭壇は、北海道が盛んなんだ。うちの専務が一年かけて向こうで勉強してきたんだぜ。無理やり頼み込んで作ってもらった」
と、ケンちゃんは胸を張る。
本当に豪華な祭壇の上段で、白い作業着姿の父の遺影が嬉しそうに笑っていた。 

 午後6時30分。気温3度。
底冷えする寒さと共に、大きなボタン雪が音も無く落ちてくる。
お経が始まる前からポツポツと参列者が訪れ始め、後で焼香する親戚はお御堂の中に座って名前を呼ばれるのを待っていた。
「雪がひどくなったから、参列者は多くないかもな」と、つぶやいたケンちゃんの予想通りだったのか、予想以上だったのか、300人ほどが焼香してくれた。
 中には、私が店を手伝っていた頃からのお客さんもいたし、毎週通っていたアクアウォーキングのインストラクターも来てくださった。ケンちゃんが焦ったのは、現役の市長さんが直々に来てくださった事で、
「秒単位で動いているような忙しい人が来ると判っている時には、受付待ちをしなくていいように、別の受付を用意するんだよ。それをやってなかったのは、葬儀社にとって恥なんだよ」と、後々叱られてしまった。
 当日の朝、「間違いなくカンちゃんが死んだんですか?行けるか行けないか判らないけれど、なるべく最期のお別れをいいたいと思っています」と、電話はあった。けれども、私はその人が今は市長になっているとは知らなかったし、来ないかもしれないと言ったので、あまり気にしなかったのだ。
ケンちゃん、ごめんなさい。恥をかいちゃったかしら。
 父の交友関係は広かった。誰もが別れを惜しんでくれ、誰もが「こんなに急に…」と言葉を詰まらせた。
読経が始まる頃には、外は吹雪になった。
父の好きだった、津軽三味線の故郷もこんな天気だろうか。
こんなにも寒く、足元の悪い中、わざわざ来てくださる方々に申し訳なく、ありがたく、三つ指をついた畳に、涙が落ちそうで困った。
 家では既に連絡を受けた父の姉弟たちが待ち受けていた。
皆、検死の結果を知りたがったが、結局はっきりとしない上に、夕べ私と妹と別れてから、死亡したと推定された午前1時までの間に、父が何をしていたのか全く判らない。
 父は戸外で死んでいた。左眉の上に半円状の打ち傷があった。
間違い無いのは、あの後外へ出て、座ったまま死んでしまったということだけだ。
 ケンちゃんは仏間に父を運び込むと、母から浴衣を受け取ってもう一度着替えさせた。ドライアイスを抱かせ、枕元に小さな祭壇を作り、線香や蝋燭やお花を供え、まだ何も書かれていない位牌を置いた。
「皆さんお集まりのようですから、葬儀の事を決めさせて頂いてよろしいですか?」
 リビングにケンちゃんを中心にして車座になり、取り出すカタログを覗き込む。
 会場は近所のお寺を借りる事にした。うちのお手継ぎのお寺ではないが、近所という事で、祖母の時もそこで葬儀を出した。
 日程は22日に友引を含むので、遅らせる案も出たが、父が亡き後の店の始末を考えると、なるべく早く行って片づけをすませた方がいいだろうと言う事になった。友引の日の葬儀は、棺の中に「友引人形」を入れて連れて行ってもらえばいいのだと言う。
 棺や、霊柩車のグレード、祭壇の値段。
この三つがもっとも大きな品になるだろうが、他にも、遺影の選出、香典返しの数量、受付のテントの大きさ、レンタルするストーブの数、引き出物の数量と中身、盛りカゴの種類と名前と数量の注文など、葬儀社と決める事柄は思った以上に細かく、たくさんあった。
「ストーブはうちがお持ちしますが、灯油はご用意くださいね。葬儀屋で頼むと市価の二倍くらい高くつきますよ」
などと、少しでも安く上がるようにアドバイスもしてくれる。
「祭壇のグレードは決めて頂きましたが、この写真の通りにはなりません。私が会社と掛け合って、もっと素晴らしい物にさせて頂きます。お約束します」
ケンちゃんは「ダンナが来たら、打ち合わせをするから連絡しろよ」と、携帯の番号を置いて出て行った。
 次に自治会の人と打ち合わせをしなければならない。
昔の葬式と違って、台所で精進料理を作ってもらうような賄のお手伝いはなくなったが、式の受付や、お寺での手伝い、お茶出しなど、この地域ではまだまだ近所との繋がりが密接で、会長の指示の元お手伝いの人数などを決めていくのだ。
訃報を聞いて、父の幼なじみ達が近所から集まってくれた。
元お習字の先生である裏の家のTさんは
「法名は私が位牌に書き込みたい」と言って下さり、立派な字を書いて下さった。お寺へ持参する包み紙なども、Tさんが全部字の事は引き受けて
「これがカンちゃんへの最期の贈り物やなぁ」と目を潤ませた。
一番仲の良かったSさんは、
「1ヶ月前に、幼なじみ4人で集まって新年会をやったんや。今度の愛知博覧会に行こうって話して、旅行代理店を探す矢先だったのに…」と、父の枕元でずっと泣いていた。
 父はやはり愛されていたのだと胸が痛む。
店のお客さんにも連絡をした。
店には「友の会」があって、毎年旅行やイベントを行っていたので、その会長さんと、賄いのおばちゃんが中心になって、式の受付を立ててくれる事になった。
 お手継ぎのお寺から住職さんが来て、枕経を上げ、法名を下さったが、父と仲が良かったらしく、およそ父にはふさわしくないほどの格の高い名前をくださったと、Tさんは感心しながら位牌に字を書いた。
 親戚も仕事の終了と同時に次々訪れて、お悔やみを述べていく。
なにしろ田舎の事で親戚が多い。
連絡漏れが無いように、祖母の時の香典帳を参考にして連絡をしていった。
 夜9時。夫が到着した。義母とケンちゃんに「早く福井へ」と、後押しされたらしい。
ケンちゃんは本当に、正義感が強く、情に厚い。
 駅まで車で夫を迎えに出ると、空はすっかり雪模様になり、閑散とした駅前の商店街は更に寂しく感じられる。
一度実家に行き、大まかな説明を行ってから、ケンちゃんの自宅に移動して、納棺以下の手順を細かく打ち合わせて、この長い一日がやっと終わった。
 ケンちゃんは、背が高くない。陸上部の棒高跳びの選手だったので、筋肉質でスポーツ刈り。老け顔で言葉使いが乱暴で、わざと悪ぶっているような所のある中学生だった。
 けれどもそれは優しさの裏返しで、自分が優しいのを照れ隠ししているだけだと私も夫も良く知っている。だから「おやっさん、なんで死んだんや?具合悪かったんか?」と聞かれて
「私が殺したようなもんやわ。はるばる帰ってきて、店の経営が悪いとか言ったから、お父さんの心臓はショックで止まってしまったんや」と言ったら、
「そんなバカな事あるもんか!誰かにそんな風な事を言われたのか!?」と、目を真っ赤に充血させてイライラとタバコを踏み消した。
「いいか?おやっさんは寿命やったんやぞ。お前のせいなんかじゃ絶対無い!」
 中学卒業から30年近く歳を経て、ケンちゃんはごま塩頭のいい感じの中年になった。老け顔だから同じ歳の同業者より、年配が信頼してくれると以前言っていた。
 店に入り、奥座敷の布団で眠る父に服を着せる。
検死の終わった父は、丁寧に掛け布団を着ていたが、その下は裸で、脱がされた服はゴミ袋に入れられて部屋の隅に置かれていた。
押入れをさぐったが、浴衣や寝巻きのような着せやすい物が見当たらず、パンツ、綿シャツ、ズボンを引っ張り出した。
 ちょうど全身麻痺の寝たきりの人に着せるように、仰臥位から側臥位にし、袖を通していく。身体の大きな父は重くて、二人がかりで着せるのも大変だった。薄く積もった雪の上に居たため、足の爪先がとても冷たかったが、靴下を見つけられなかった。
「おとうさん、ごめんね。家に戻ったら靴下を履かせてあげるからね」
こんな更衣を行うために介護職に就いたわけではない。
けれども、出来ないよりはきっと、ずっと、ましだ。

 遺体運搬車を待つ間にケンちゃんが言った。
「お前は嫁に出たけれど、本家の長女やから、3日ほど寝ないくらいの覚悟をしておけよ。ダンナには連絡したか?」
「うん。明日来るようにって言っておいた」
「明日!?遅いな。お前、味方はいるんか?急死した事で、変な風に噂されているんじゃないのか?味方が明日の到着でいいのか?」
「大丈夫。親戚はみんな味方になってくれているよ」
ケンちゃんは、やはり夫が明日到着というのが不満そうだった。側についていてやるべきだと呟いた。
「おやっさんは、人を集めてワイワイやるのが好きやったやろ?これから、おやっさんの、最期の大イベントをやるんやぞ。俺が絶対恥ずかしくないようなイベントにしてやるから任せておけ」
「うん。お願いします」
こんな風にケンちゃんに頭を下げるのは初めてだった。
 遺体運搬車が到着して、父は実家に戻る事になり、私はケンちゃんが運転して来た葬儀社の名前の入った軽トラックに乗って送ってもらう。
その車の中で、ケンちゃんは恐ろしい事を言った。
「いいか?おふくろさんから目を離すなよ。突然死した人の奥さんって、発作的に後追い未遂する人が居るぞ」
それは微塵も想像しなかった事だった。
「ショックなのに、哀しいのに、葬儀の支度に振り回され、仕切らなくちゃいけないんだから、逃げたくなったり、自分も死にたいと思うのかもしれない。だから今回の仕切りは、お前がやれ。おふくろさんには充分休んでもらうんだ」
そんな事は無いと、頭の中で強く否定したが、父が死んで以来、初めて「怖い」と思った。
母はどちらかというと、自分ひとりで決定的判断が出来ない人だ。
必ず誰かに「どうしよう」と相談してからしか行動しない。
だから、葬儀を仕切るのは私のほうがいいとは思っていた。
これでも本家の長女として、養子を取って跡を継ぐべく育てられたのだ。親戚関係も、町内の事も、ある程度は把握している。
 車が家に着いた。おそらく仏間には北枕の布団が用意されているだろう。
「さーて。お前の親戚はどんな奴らかな?一丁ビジネスに入るか!」
ケンちゃんは、下手なウインクをして車から降りた。
 20日は日曜日。店は定休日だ。
父が出かけてしまう前に、なんとか話し合うには10時頃がいいだろうと妹と二人で出かける支度をしていると、金曜日に店で会った叔母さんから電話があった。
「お父さんが店で死んでいるみたいだって、常連さんから携帯に連絡があったよ!すぐに店に行って!!」
震える叫び声に、私と妹は固まった。どういう意味だか全然わからない。
「死んでいるみたいって…救急車は呼んだの?」
「呼んでいないって!早く確認に行ってよ!」
にわかには信じがたい内容の電話である。
だって、夕べはあんなに元気で、大声でわめき、お酒をぐいぐい飲んでいた父なのだから。
とにかく、出かける用意なら出来ている。妹の車に乗って、母も私も店に急いだ。
 実家から店まで、車なら5分ほどの近距離だ。
行ってみると、叔母さんはその常連さんの車でもう到着していた。
「どこにいるの?」
私が聞くと、叔母さんは目を真っ赤にして「勝手口に居るよ」と答えた。
駐車場から勝手口に回ってみると、そのドアの前に父が死んでいた。
母が何か叫んだようだった。妹は口に手を当てて黙り込んだ。
私の携帯電話で救急車を呼ぶ。
「父が死んでいるようなんです。この場合、警察にかけたほうがいいですか?」
私の言葉に救急隊の人は、「間違いなく亡くなっているか確認した上で、こちらから警察へは連絡します。あなたはどういった関係の方ですか?」
と聞き、父の生年月日や、現在地を尋ねられた。
「お父様は現在どういう状態で、どうして死んでいると判断したのですか?」
嫌になるくらい冷静に私は答えていた。
「店舗勝手口外、扉にもたれかかるように座位の状態です。バイタルサインが無く、顔色不良。硬直を確認しました」
救急隊の人が「失礼ですが、あなたのご職業は?」と言った。
「介護員です」
 ああ!わたしはいつの間にか、こんなにも介護職の人間になっていた。
自分の父が死んでいるというのに、冷静に判断して、報告して、涙のひとつも流さないなんて!!
 やがてやって来た救急車を店まで誘導すると、中から三人の隊員が下りてきて、父の死亡を確認し、警察へ連絡した。
警察からは十人もの人が来て、
「事件性は無いようですが、一応『変死』なので検死を行います。店の中に遺体を寝かせるようなスペースはありますか?」と言った。
まるでドラマのように、屈強な男たちが父を奥座敷へ運び込んだ。
「ご家族は見ないほうがいいでしょうから、扉は閉めておきます。その間に事情聴取を行いますから」
若くて、美しくて、刑事ドラマの女優のような婦警さんが、
「それでは、最初に、皆さんの名前と本人との関係をお聞かせくださいね」と話し始める。
母は頭を抱えてうずくまっている。
妹は膝を抱えてうつむいている。
仕方なく私が質問に答えていく。
「そうすると、あなただけ、同居していないのですね?ここへあなたの住所と名前と電話番号を書いてください」
調書とボールペンを渡されて、私は狼狽した。
手が震え、歯が鳴り、押さえようとすればする程、それは激しくなってしまう。
冷静に対応する私の裏側で、確実にメーターが振り切れるほどの動揺があることが自覚でき、困ってしまう。
見かねた婦警さんが、「本人の署名でなくてもいいので、私が代筆しましょうね」と書いてくれた。
そうしているうちに、近所に住む伯父と伯母が来てくれた。
検死担当の医者もやって来た。
「父は、すぐに返していただけないんですか?」
「事件性が無いと思われるので、解剖はしません。検死は30分ほどで済みますから、そうしたら葬儀社へ連絡してもいいですよ」
伯父が「おばあちゃんの時と同じ葬儀屋に頼むか?どうする?」と聞いてきた。
私は迷わず、「夫と私の中学からの親友が葬儀社に勤めているから頼んでみる」と答えた。
母も、妹も伯父も伯母にも、ここで実家に帰ってもらい、実家の片づけをして納棺までの準備をしてもらう事にした。
電話を取った親友のケンちゃんは、
「おう!どうした?元気か!?」と出てきたが、
「父が死んだので来て欲しいの。葬儀をお願いできるかしら」と言うと
「おやっさん、どうしたって?すぐに行くから待っていろ!」と駆けつけてくれる事を約束してくれた。
 警察の人たちも、医者も
「体温5度。死亡推定時刻午前1時。他は解剖していないので具体的にはわかりませんが、おそらくアルコールを大量に摂取して冷たい外気に触れたので、ショック死したか、眠り込んで凍死したか、額に打ち傷があるので、転んで打ち所が悪く、座りなおしたものの、そのまま事切れたのか解りません。」と言い、引き上げていった。
解剖すれば判るのですかとは言えなかったし、たったひとりでケンちゃんを待つ間、検死の行われていた奥座敷を開けて見る勇気もなかった。
 粉雪がはらはらと舞い落ちる駐車場で、私はケンちゃんの到着を待った。

・・・続く・・・
 翌19日。
妹と私は朝早くから額を寄せて、話し合っていた。
「昨日の店の様子だと、お父さんは店を辞めることを嫌がると思うよ」
「うーん。そうねぇ。店を辞めて家に入っても、趣味もないし、第一人と楽しく騒ぐのが好きな人だからねぇ」
事前に取り寄せた店の伝票たちは、毎月確実に赤字を示している。
この金額が膨れすぎないうちに、なんらかの手を打たないと収拾がつかなくなるだろう。
「店を辞めるように説得する前に、赤字を減らすためにどういう営業努力が出来るか考えようか」
 父は田舎の小作農家出身だというのに、いい格好好きで(オーダーメイドのハンチング帽をいくつも持っていた)、お金の使い方が荒かった。
 次々と田畑を売ってしまい、もう残っているのは自宅と店だけだ。
これを取り上げられるのはどうしても避けたい。
昼間からお酒もガンガン飲むので、店の赤字は自分で飲んでしまった酒代ではないかと思うほどだ。
また、人と一緒に居る事が好きで、何かというとイベントを発案し、「花見だ」「北海道旅行だ」「○○さんの入籍記念会だ」と集まりを催し、自腹を切っておごってしまう。
冠婚葬祭の交際費も膨大な金額だった。
外食が好きで、自宅に戻ってくる事はほとんど無い。
そこで、
○ 新聞(地方紙)は自宅でも取っているので共用とする。
○ スポーツ新聞は取らない。
○ 朝食と昼食は自宅で摂る。
○ 大きな自家用車は必要ないので、軽自動車に変える。
○ 仕入先は個人向けのもっと安い店に変更する。
○ まかないのおばちゃん(Mさん)の給与が大きいので、大学生のアルバイトに変える。
○ 毎週遠くまで通っているアクアウォーキングは近所のプールに変える。
○ スーパー銭湯へ通うのを止め、自宅で入浴するようにする。
などなどなど…細かく思いつくだけ書き出して、今晩店が終わってから父と話し合おうと決めた。

 しかし、やはり素直に娘の言う事を聞いてくれるような父ではなかった。
「お店の経営について…」と言ったとたんに
「お前らの指図は受けない!お前らが指図するなら勝手にすればいいじゃないか!」と興奮して怒鳴り始めた。
「落ち着いて話を聞いてよ。お互い大人同士として話し合おうよ」と言っても、父はウイスキーのストレートを瓶からラッパ飲みして、ただわめくだけ。
娘に意見される事が面白くないだろう事は充分理解できるが、まずは話し合いのテーブルに着いてもらわないと、何の進展も臨めない。
 挙句に父は店の座敷に横になると眠ってしまった。
「こんなに酔っている時に話してもダメだね。明日の午前中に出直そうか」
妹と私は、22時頃店を後にして実家に戻った。

まさかこれが、父との最期の別れになるなんて思いもしなかった。



・・・続く・・・