◆真昼の月◆

ヘルパーのお仕事、職人仕込みのレシピなどを綴ります。

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T子さん(明治44年10月生まれ)の終戦の記憶


終戦が決まった時、夫は某セメント会社の平壌支社に勤めていて、私は4人の子どもと一緒に社宅に住んでいました。
といっても、夫はその少し前に召集されて本土へ渡ったので、引き上げた時には別だったのですが。

強制送還が決まり、38度線より北にはロシア軍が、南にはアメリカ軍が入りました。
平壌支社長は考え方の新しい人で、当時は会社の事務を日本人女性に任せ、現地の女性は掃除婦やまかない婦として採用するのが普通だったにもかかわらず、
「十分仕事のできる女性もいるから」と、現地女性を秘書に採用していました。
全員が引き上げるときに社長はこの女性に案内役を頼んだのです。

「38度線では略奪が横行していて非常に危険です。その手前で列車を降りて山越えしましょう」
と彼女は言い、日本人全員を引き連れて先頭に立って歩き始めました。
長女にリュックを背負わせ末っ子を背中に負ぶって、貨物列車に乗り、38度線手前の小さな田舎の駅で降りると一昼夜山を越え、小さな渡し舟の船着場に着きました。

彼女は船頭さんに話をして、定員オーバーながら何往復かさせて川を越えさせ、そのあと近隣の村に入って村人に日本人を泊めてくれるように交渉してくれたのです。
「米を持っている人は出しなさい。どの家でも明日炊いてくれるように話してあります。それをおにぎりにして釜山を目指すといいでしょう」
彼女とはそこで別れました。
私たちは何も奪われることなく、安心して眠り、全員そろって釜山港へたどり着くことができたのです。

釜山から下関行きの船に乗りましたが、途中の航路は落ちた戦闘機や沈没した戦艦の残骸で横切ることができませんでした。
仕方なく迂回して、船は福岡に到着しました。
福岡には引揚者の受付所があって、どこにいたのか、家族は誰々かなどと聞かれたのですが、そのあとで、炊き出しが配られました。
片手では持ちきれないほどの大きな、炊き込みご飯のおにぎりを1人にひとつずつ。
子どもにも赤ちゃんにも1個ずつ。
あの味は今でも忘れません。
ようやく帰ってきたんだという、安堵と祖国の味でした。

結局夫は出征することなく待機の状態で終戦になり、2ヵ月後に会うことができました。
だから私は爆撃も防空壕も知りません。
あの秘書さんがあれからどうしたのか。知りたいけれどもう無理でしょう。
同じセメント会社のもっと北にあった工場の人たちは、老人と子どもが生きて帰って来られなかった。

やはり無事に帰国できたのは、あの秘書さんのおかげだと思っています。
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三度目の召集を受けて、軍へ出頭した私に上官が言った。

「君の父上は既に亡く、君は長男だから、前線で戦うな」と。
かくて私は記録係として艦に乗り、未知の戦場へ向かった。

食料の管理、薬品の在庫。
およそ記録の必要なことは、すべて私のところへ報告されてくる。
最も重要なのは各兵士の戦闘の記録。
いつ、どこで、誰がどんな風に戦ったか。
戦果はどうだったか。
誰がどういう身分の敵を倒したのか。
それは戦後の昇格にかかわるのだから、誤記は許されない。


戦いが終わった日、
軍事裁判にかけられることを恐れて、記録のすべては焼却し、
私は仲間と故郷くにに戻った。


私が生き残ったのは偶然にすぎない――。



――K夫さん 91歳。
支那での実体験による記憶
(この「支那」の表記は、K夫さんご本人の口述そのままであり、
私個人は特別な侮蔑の意図を持たないことを明記しておきます)



先日、原爆の絵を置いてある美術館へ行ってきました。
それは、自分が想像していたよりずっと暗くて、ずっと重々しい絵でした。
修学旅行で長崎の原爆記念館へ行った時も、
そこに収蔵されている写真や手紙に震え上がるほどでしたが、
今回の美術館の絵も、とても苦しい思いをして観ました。
それと同時に、こんな絵を生涯をかけて描き続けた画家の、
精神力と使命感に打たれました。

単純に、戦争は怖いです。
それだけじゃいけないのかもしれませんが。
戦わずに平和に暮らしたいと、誰の犠牲ものぞまないと
痛切に思いました。


終戦記念日に。
祈りつつ。
Tさん。群馬県前橋市出身。90歳の記憶 2


国定忠治で有名な 月の綺麗な赤城山
榛名 妙義も加えたら それが自慢の 上毛三山
立派なお山はあるけれど 無くて悲しい 青い海

銀シャリ うどんがあったって
魚はろくに 食べれない
身欠きニシンを春に食べ 
新巻きサケを冬に食べ
他の季節はいつだって 棒タラばっかり食べていた

三日三晩も水に浸け 魚がやわかく戻ったら
大きな鍋に みな入れて 味噌と砂糖で甘く煮る
へっついさんのその上で ニシンの匂いがしてきたら
あそこの家にはご馳走と 近所にみんな知れ渡る
新巻サケは重宝で 切り身にさばいて塩焼きし
アラは大きく切り分けて 粕汁にして飲めばいい
野菜もたっぷり入れたなら 身体もほかほか温まる

子どものおやつは くだもので
柿やイチジク当たり前 
なにより豊富でうまいのは お蚕さんの桑の実だ
桑の実黒くなったなら そのまま摘んで食べちまう
あんまりたくさん食べすぎて 口は紫 舌痺れ
渋みで腹をこわしても やっぱり食うのはやめられぬ

うまい魚はないけれど
上州赤城はよいところ
みな暖かく いい人で 一緒に鍋を食いながら
毎日 仕事にはげんでる
Tさん。群馬県前橋市出身。90歳女性の記憶


里は上州空っ風 かかあ天下の土地柄で
身を切る風は冷たいが 雪が無いのが幸いと
春から秋に稲作り 秋から春に麦作る
農家は休む暇ないが
銀シャリ うどんは当たり前

かかあ天下と言うけれど 女が一番働き手
畑仕事のその他に 桑を育ててカイコ飼う
マユが採れれば より分けて
いいマユだけは売りに出し くずマユ集めて糸紡ぐ
文字も読めない母だけど 勘定できない母だけど
機を織ったら逸品で 糸の計算すぐできる
一反織るのに 何匁  その内 縦糸何匁
紅く染めるの何匁 藍に染めるの何匁
頭の中で柄描き いきなり機を織るけれど
ちゃんとあや織り出来てくる 色の模様も素晴らしく

古い着物も捨てないで 細く裂いたら機を織る
見てくれ悪く 厚いけど コタツのぐるりに丁度いい
半端な絹も捨てないで 打って叩いて綿にする
ほぐして背中に入れたなら 綿入れ着るより暖かい

風の冷たい上州の 人は誰でも暖かく
農具、肥料を買ったって 掛け金ちゃんと支払って
上州百姓 上客と 金貸したちが言うくらい
働き者で 正直で おてんとさまは 見ていると
毎日毎日過ごしてる



あまりにも素敵なお話で、残しておきたいと思ってしまいました。
新しく「昭和初期の記憶」というカテゴリーを作り、そこへ収蔵しておきます。
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